寄稿


満つれば欠く

中島 聡
株式会社明治 特別顧問

公益社団法人日本アドバタイザーズ協会専務理事、一般社団法人デジタル広告品質認証機構代表理事、日本広告審査機構理事、ACC理事の他、マーケティング広告関係の複数団体の委員を務め、マーケティング及び広告活動の健全な発展のための活動を行っている。
同時に明治大学大学院及び高千穂大学大学院にて教鞭をとり、若い世代の人財育成活動を行っている。

 新しい年を迎えるにあたり新年の抱負、また明るい前向きな話が望ましいかと思いますが、欲という言葉からは良いイメージと共にあまり良くないイメージを思い起こすのは私だけであろうか。欲望、欲求と1つ間違えれば動物的な悪いイメージとなりかねない危険な言葉なのかもしれない。マーケティングの泰斗である上原征彦先生の最新著作である『「欲望」の生産性—欲望と人間、そしてビジネス』では人間が生きるためには、「金欲」「我欲」「開発欲」の駆動が必要条件であり、これが新しいマーケティングの基礎となる、と述べられています。
 様々な欲というものが連綿的に昇華され、心地よい便利な世の中があることを考えれば、欲というものは素晴らしいものやコトであり、世の中の発展や個人の幸せには不可欠のものであると言えるかと思います。哲学的や宗教学的面からのアプローチでは違った考えとなるかもしれませんが、欲というもの、欲という事、大いに結構なものであると言えるかもしれない。
 この事はマーケティングというものが持つ二面性を顕わす事かもしれない。
 幸せの基準をどこに置くか、また環境変化によって個人、家族、企業、団体、国家の置かれた状況は刻々と変化する。この事は欲というものの多様性と実態の無さを著していると言えるのでしょう。
 『坂の上の雲』のようにこの坂を越えれば素敵な何かが待っていると信じ、命をかけた努力を行う人間というものは崇高な神に近い魅力を感じるものである。
 そういう方々の努力の賜物として現在を享受している身としては感謝感謝で言葉に尽くせないものである。きっと「欲」というものの崇高な部分が積み重ねられ、ブランドのように、発酵成長させられたからに違いないのであろう。
 ただ、『坂の上の雲』の後の太平洋戦争に突入し大きな尊い犠牲を払った事を考え合わせれば、発酵というものと腐敗というものが、前者が体に良い影響を与える現象、後者が体に悪い影響を与える現象であり、根本は一緒であるという事から、発酵し、どこかの段階で腐敗に転じ、悲劇をもたらしたという事ではなかろうか。
 この事例は「欲」というものを考える際の大きな補助線となるのではなかろうか。自分自身、家族、ご縁のある方々、はたまた国家や世界と対象は広がってゆくが、「欲」というものが幸せ獲得のために果たした役割は計り知れないであろう。
 「欲」がなければ幸せは獲得できないと言っても過言ではないであろう。
 しかしながら、自然界に生きるものすべてに適応される、「エントロピー増大の法則」と「動的平衡理論」には抗う事ができない証明であるように思われる。
 純粋に幸せを願う「欲」から徐々に様々な要素が混ざりこんで乱雑になり結果として収拾がつかなくなった、まさに私の机の引き出しの中といった事であろう。
 アレモコレモ的感覚から許容量を超えてしまって、探し物が見つからない。そのうちに何を探しているのか見つからなくなるという事が「欲」が発酵ではなく腐敗した状況と考える必要があるかと考える。

 発酵と腐敗の分かれ目は一体どこにあるのだろうか。
 答えはきっとどこにもないのであろう。人間というものは常に現状に不満を持つ存在である以上、分岐点探索は現実には不可能であろう。また常に不満や未充足感があることが課題というものを明らかにし、発展の足がかりとなる点から考えあわせても、分岐点探索は意味の無いことかもしれない。
 次に「動的平衡理論」に照らし合わせると次の点が浮かび上がってくるのではなかろうか。厳密な理論展開ではないが、「置かれた環境」に従い様々な欲が変化するという事であろう。環境変化に伴い様々な欲の質と量が変化するという事であろう。そうすると、初期の純粋な欲というものから、だんだんと変化してゆくのが欲の本質なのであろう。環境変化を止める事は何人たりともできない。
 そうすれば、欲というものが生命を持ち、最初の形から、全く別の形に変容する事もいたし方ない事であろう。同時に欲というものが進化の過程で強靭な生命力をもった別の生命体に変態する(トランスフォーム)事も止むをえないであろう。
 蛹から羽化し美しい蝶になるような変態であるならば大いに結構であるが、十人十色、一人十色の人間という蛹であるならば、美しい蝶なのか、はたまた平和の使者モスラなのか、悪の権化の怪獣なのか、出た所勝負といった所であろう。
 司馬遼太郎氏は『この国のかたち』という著作の中で日本が『坂の上の雲』の時代背景である日露戦争後、「統帥権」というものがアメーバのように増殖変態し得体の知れない怪物化したことによるものである趣旨を述べられているが一部の機関や人間にとって都合が良いように変態化させた「欲」によるものであるかとも言えるかもしれない。
 どうやら皆を不幸にする欲と皆を幸せにする欲との分かれ目がこのあたりにありそうである。
 現在は、前述のように正しいか正しくないかに関わらず、溢れかえる情報につつまれている。むき出しの欲望や、他を誹謗中傷により貶めたり、自らの欲求不満を解消するための発言が多く見受けられるが、一方では統制されない中で多くの視点を持つ事ができるのも事実である。
 インターネットの黎明期も規模は異なるものの同じような状況ではなかったか。
 毎年、年頭には企業経営者の年頭所感が発表されるが、「変化の激しい」という枕言葉が使われなかった時はなかったように思われる。
 「変化の激しい」毎年に動的平衡を保ちながら進んできた故の今日ではないか。
 お釈迦様は様々な苦しみ(四苦八苦)は限られた視点から何事かに執着する事から生まれるとされている。そうすることによってアメーバのように増殖した怪物を自分自身で作り出しているのであろう。
 平和の使者のモスラ、美しい蝶まではいかずとも、ごく普通のチョウチョになれれば大いに結構。決して怪獣にならないようにしよう。
 サラリサラリと受け流す、執着を持たない生き方、これを私の今年の欲、願いとして一年を過ごして行きたいものです。